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[第65回]-「歴史群像」で読み解く零戦の実像

2025.02.19

 ゼロ戦、またの名を零戦(れいせん)といえば、戦前~戦中(太平洋戦争)の日本を代表する戦闘機です。

 「歴史群像 No.189 2025年2月号」では特集「零戦と堀越二郎」(文=古峰文三)を組んでいます。

 本号ではなかば定説化されていた零戦の伝説(主に欠陥説)に疑問を投げかけ、新たな見解を示す特集となっています。

 これまで言われていた零戦伝説は以下の通り。

1.実現困難と思われた計画要求に対して、堀口二郎は天才的な設計で零戦を設計した。

2.1939年に登場した零戦は、当時どの国も太刀打ちできない高性能戦闘機だった。

3.高性能とのトレードオフで防弾装備が皆無となり、パイロットは身を守る術(すべ)がなかった。

4.零戦は二一型(1941年)が最高傑作で、その後の型はどんどん性能が落ちていった。

5.英独戦闘機は機体設計に余裕が有り、エンジンも武装も強化されて性能が著しく向上した。片や零戦は、基礎設計で軽量化しすぎたため、増強や改良の余地は残っていなかった。

零戦の基本情報はこちら
【特集】日本の海軍機
(時事ドットコムニュース)
https://www.jiji.com/jc/v2?id=20110904japanese_naval_aircrafts_01

1.の海軍が示した「十二試艦上戦闘機計画要求書」(1937年)は時速500キロ(270ノット)以上、20ミリ機銃装備、巡航滞空6時間以上が目を引きます。この要求書を見た中島飛行機は試作を辞退したほど過酷な仕様と言われました。
 ただ特集「零戦と堀越二郎」では、諸外国と比較すると「この時期の試作戦闘機としては世界標準を上回る性能という訳ではない。」と書かれています。時速600キロを狙うのがこの時期は当たり前だったとして、決して過酷な要求ではなく妥当だったと執筆者(吉峰氏)は評価しています。

 同時期の諸外国では、イギリスのスピットファイヤー、ドイツのBf109も時速500キロ越を達成していました。
 当時の三菱では中島の競合機に打ち勝つために、機体の限界を超えた設計が遠因にあったのではないかとのこと。

 零戦は1.と2.を実現したが、結果的に3.の無防備な仕様となったのは仕方のないことと堀越は戦後に回想しています。
 しかし試作競争に勝ち残った「軽量化」は、試作機が空中分解するというという弱点を伴なったため、のちに五二型の誕生までには十分な機体強度を持たせる改良が施されました。

5.の諸外国は余裕を持たせた設計が…というくだりは、執筆者が英・独ともに、機体も翼形も再設計をしていることを「零戦五二型をめぐる伝説を検証する」で明かし、零戦に改良の余裕がなかったわけではないと指摘します。

※米軍に鹵獲された零戦五二型(A6M5)。唯一の飛行可能な機体。Planes of Fame Air Museum 所蔵

 この他にも、零戦の翼形変化、エンジンの換装問題などさまざまな角度から技術的な知見が光る検証が続きます。ぜひ、書店で本誌を手にとってご一読ください。

※主翼端が角形の零戦三二型(A6M3)。筑前町立大刀洗平和記念館所蔵
※主翼強化版の零戦五二甲型(A6M5a)。三菱重工が復元。現在は撮影不可。(画像提供:高尾義博氏)

 筆者としては、制空権を取るための艦上単座戦闘機にすぎない零戦に、太平洋戦線で想定外に広大で過大な空中戦を強いた運用方法に問題があったこと、
 さらに1500~2000馬力を安定して出力するエンジンとそれに耐えうるタービンなどの金属技術が日本になかったために、結果的に敗戦まで新型機を製作できずに零戦に頼らざるを得なかった、この2点が航空戦の敗因といえるのではないかと考えています。

※戦闘爆撃機になった最終量産モデルの零戦六二型(A6M7)。大和ミュージアム所蔵。

 戦記物では個人の印象で語られることの多かった零戦ですが、技術面からこのような検証が進むことを願ってやみません。(水田享介)

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